日本的绳文文明|进化的陶器与可持续的生活方式~如”如何创造一个没有冲突的世界”~
The Jomon Civilization of Japan | Evolving Pottery and Sustainable Lifestyles –How to create a world without conflict”
近年、日本の縄文文化に対する関心が高まっています。その背景には、2021年の北海道・北東北の縄文遺跡群の世界遺産登録や、コロナ禍以降世界に置き去りにされた日本の、日本人としてのアイデンティティの復権があります。また、日本の歴史教育において縄文時代が「原始的」な社会として簡潔に扱われてきたことも見逃せません。
しかしその一方で、東アジア圏における1万年以上前の石器類の発見による巨大な文明の可能性、中でも日本で発見された縄文式土器の際立った美しさは高度な文明の存在を想像させます。
なぜ、縄文時代の人々は1万年以上の大昔に、これほどの高度な文明を、平和的に1万年以上も継続できたのでしょう。本稿では、縄文時代の概要紹介と共に、その理由と現代日本との関係を探っていきます。
近年来,人们对日本的绳文文化的兴趣日益增加。这背后有两个原因:一是2021年北海道和东北地区的绳文遗址群被列入世界遗产,二是新冠疫情后,日本人作为民族身份的复兴。此外,在日本历史教育中,绳文时代常常被简洁地视为“原始社会”,这一点也不容忽视。
另一方面,东亚地区发现的1万年以上的石器类文物,显示出巨大文明的可能性,其中在日本发现的绳文式陶器的独特美感更是让人联想到高度文明的存在。
那么,绳文时代的人们为何能够在1万年以上的历史中,和平地维持如此高度的文明呢?本文将介绍绳文时代的概况,并探讨其原因及与现代日本的关系。
In recent years, interest in Japan’s Jomon culture has been growing. This is partly due to the registration of the Jomon archaeological sites in Hokkaido and Northeast Japan as a UNESCO World Heritage Site in 2021, as well as the revival of Japanese identity that has been left behind in the world since the COVID-19 pandemic. Additionally, it cannot be overlooked that the Jomon period has been simplistically treated as a “primitive” society in Japanese history education.
On the other hand, the discovery of stone tools over 10,000 years old in the East Asian region suggests the potential for a great civilization, particularly highlighted by the remarkable beauty of the Jomon pottery found in Japan, which evokes the existence of an advanced civilization.
Why were the people of the Jomon period able to maintain such a high level of civilization peacefully for over 10,000 years? This article will introduce an overview of the Jomon period and explore the reasons behind this, as well as its relationship with modern Japan.
縄文文明の概要
縄文文明は日本列島における最古の定住文化で、約16,500年前に始まり、約10,000年にわたり続きました。これは古代エジプト文明(約3,000年)より長い期間であり、その持続性は注目に値します。縄文の名称は、1877年エドワード・シルヴェスター・モースが大森貝塚で発見した独特の縄目文様が施された陶器に”cord marked pottery”と命名したことが由来といわれています。
縄文時代の初期は、旧石器時代後期のナウマンゾウのような大型哺乳類が日本列島で絶滅した時期と重なります。つまり、旧石器時代の狩猟による肉食スタイルから、狩猟・漁労に加えて果実など植物質食料を組み合わせたスタイルに変化しつつあった時代です。
果実の収穫時期は限られるため貯蔵する必要性が生じ、やがて、より美味しく栄養豊かに食べるために粉砕や加熱などの加工が行われるようになりました。そして、豊かな食生活のためにさまざまな土器が作られ、多くの民による平和で持続可能な集団生活が営まれていったのです。大まかに追うと、下記のようになります。
- 【草創期・早期・前期】16,500年前~:世界最古の陶器出現、定住集落の形成
- 【中期】紀元前7,000~2,500年:人口増加、芸術的な陶器の増加
- 【後期】紀元前2,500~1,000年:気候冷却、沿海部への移住
- 【晩期】紀元前1,000~:弥生文化の影響、稲作の導入開始
ちなみに後期以降の縄文土器は、精製土器と粗製土器とに作り分けられ、「ハレ」の器と「ケ」の器を区別したとも言われています。
驚異の縄文文化:持続可能な定住への道筋

縄文時代の特徴は、単なる「原始的な」狩猟採集社会という枠には収まらない、驚くべき定住性と精神文化の深さにあります。
道具を使う高度な文明
縄文時代の開始とともに、土器が新たに登場しました。青森県の大平山元I遺跡で発見された約1万6500年前の土器片は、現在発掘されている世界最古級の土器の一つとされています。これは、メソポタミアで土器が作られる約9000年前よりもはるかに古く、縄文文化の高度さを語る理由の一つです。
土器の出現は調理や貯蔵を容易にし、食生活をいっそう豊かにしていきます。また、この時代には、すばしこい動物を捕らえるための弓矢も登場しています。
定住による集落の形成
地球が温暖化し、森が広がり、水産資源が豊かになったことで、人々は移動生活から定住生活へと大きく変化しました。生活の拠点である「ムラ」が出現し、住居や墓が作られ、やがて地域を代表するような拠点的なムラも現れます。
たとえば、青森県の三内丸山遺跡では、太い柱を使った大型の建物や祭りの場所である盛り土、大規模な記念物である環状列石(ストーンサークル)といった施設が築かれました。これは、食料生産を基盤としない社会が、いかに大規模で複雑な集落を形成し得たかを示す稀有な事例です。
1万年以上前に成功していた持続可能な集団生活
縄文人は、森林資源や水産資源を持続的に管理・利用することで、1万年以上の長期間にわたり採集・漁労・狩猟による定住を営みました。彼らは丸木舟を巧みに操り、遠方との交流や交易も活発に行い、ヒスイやアスファルト、黒曜石といった資源を運搬します。
約3万8000年前の神津島の黒曜石が本州で見つかったことは、人類史上最古級の往復航海の物的証拠とされ、縄文人の海洋進出能力の高さがうかがえます。
さらに、八丈島や石垣島といった本土から離れた島々への到達の証拠も残されており、長距離航海やマグロ漁といった高度な海洋活動を行っていたことが示されています。
縄文を特徴づける縄目紋様:縄文土器の推移

縄文時代を語るうえで欠かせないのが、名の由来となった縄文土器の存在です。1877年にアメリカの動物学者モースが縄目紋様の土器を発見したことが発端ですが、その後、さまざまな形式の土器が発見されています。
2025年時点において発見された最古の土器はおよそ16,500年前の物とされ、青森県の大平山元遺跡から出土。縄目模様はありませんが、縄文草創期の土器として分類されています。その他、北松浦半島の豆粒文土器は約16,000年前といわれ、縄文文化に世界最古の文明説、あるいは人類起源説すら浮上してきました。
ただし、同時期に大陸側の極東地域では、技法の異なる土器文化の存在が知られているため、東アジアを中心とした世界最古期の文明の繋がりについては調査中です。
縄文土器の時代区分による分類
時代区分 | 画像 | 用途・特徴 |
草創期(16,500年前~) | 丸底深鉢土器 | 底が丸い丸底深鉢土器(まるぞこふかばちどき)が主流無文(模様がない)隆起線文(細く盛り上がった線の模様)爪形文(爪で付けた模様) |
早期(紀元前8,000年~) | 尖底深鉢土器 | 尖底土器(せんていどき)の出現土器の底が尖っているため、炉(ろ)の近くの土にさして煮炊き用の土器として使用 |
前期(紀元前4,000年~) | 平底深鉢土器 | 平底深鉢土器(ひらぞこふかばちどき)底が平たい |
中期(紀元前3,000年~) | 大型土器(火炎土器など) | 装飾が増え大型土器が登場 |
後期(紀元前2,000年~) | 小型土器(注口土器など) | 注口土器(ちゅうこうどき)など小型土器が主流豪華さより実用性重視? |
晩期(紀元前1,000年~) | 器系土器 | 芸術性が含まれ、より小さくより精巧なものが多くなる亀ヶ岡遺跡の遮光器土偶(しゃこうきどぐう)が有名 |
画像出典元:注口土器 文化遺産オンライン
縄文時代晩期の名品:亀ヶ岡遺跡の遮光器土偶
亀ヶ岡遺跡は、青森県つがる市亀ケ岡にある縄文時代後期の集落遺跡で「遮光器土偶」が多く発掘された地域です。土坑墓の集まる墓域が広がり、供献品としての土器や、装飾性の高い玉などの副葬品が多数出土し、中でも、1887年に発見された左脚を欠いた大型土偶は、その眼部の表現のあまりの精緻さに「遮光器土偶(しゃこうきどぐう)」と名付けられ、海外でも高い評価を得ています。
さまざまな器形に多様で複雑怪奇な文様が描かれ、赤色塗料が塗布された精緻で美しい土器は、福島県から北海道の渡島半島ににかけての縄文遺跡群にみられ、総称して亀ヶ岡式土器と呼ばれています。
日本を育んできた縄文の精神性
縄文時代を特徴づける遺跡群は日本中に多数存在します。しかもその文明は1万年以上続いたとされ、日本の文化・精神の起源、ひいては人類起源説すら浮上しています。
そして驚くべきことに、日本中に点在し、1万年以上に及んだその縄文遺跡群のどこにも争いの痕跡がないのです。これは、人々が平和的に暮らし、協力し合う社会を築いていたことを示しています。まさしく、今の私たちの根幹に流れる、争いを好まない心、自らを律し、利他に生きる生活スタイルに通じます。
遺跡から想像させる縄文時代の日本人の特徴
火炎土器や遮光器土偶を始めとした遺跡の出土品から、縄文時代の方々の精神性について以下のように特徴づけることができます。
- 自然崇拝(アニミズム)
- 他者と争わず共存を優先させる
- 美意識が高い
シンプルで現在の私たちにも深く根付いていると、確かに実感します。欲に塗れた現代社会で実践するのは難しいというのは、単なる言い訳で、欲に塗れさせているのも他ならぬ私たちなのです。
所有より共有
縄文時代の方々は、個よりも共同体を大切にし、所有より共有(コモンズ)が優先されたと考えられます。ムラの中心に墓地が作られ、それを囲うように住居が建てられていることから、集落全体のつながりを大切にしていたことが窺えます。また、離島や遠隔地との交易を可能としたのは、ベースに良好な人間関係を築く「和」の精神が息づいていたからでしょう。交易が、生活をいっそう豊かにしたのは言うまでもありません。
「奪い合う」のではなく「分かち合う」
今まさに肝に銘じたい、言葉です。
目に見えないものへの敬意
縄文時代を生きた方々は、自然の声に耳をすませ、これから何が起こるか予測できていたのではないでしょうか。風や気温、木々の変化、人や動物の行動のほんの少しの違いから、その先の出来事を予測し、内面の気持ちを推し量っていたのでは、と推測されます。一説では、テレパシーを駆使していたのでは?とも言われています。
鋭敏な感性による予測を超えた現象を「カミ」と呼び、言霊をはじめ、森羅万象に魂が宿るとしました。目に見えないものに対する意識と敬意が、当然のように根付いていたのです。
縄文文化の主要な特徴と世界史的意義

特徴 | 世界史的意義 |
世界最古級の土器 (約16,500年前) | 農耕を基盤としない定住社会の成功例 |
1万年以上にわたる定住生活 | 土器の早期発明と普及 |
大規模集落と拠点集落の形成 (例: 三内丸山遺跡) | 複雑な精神文化の発展 |
弓矢の利用 | 長期にわたる環境適応と社会変遷 |
丸木舟による広域交易・海洋活動 | |
土偶、石棒、環状列石などの豊かな精神文化 | |
持続可能な自然資源の利用 | |
争いのない世界 |
【まとめ】人類史における稀有な成功例
縄文文化は、農耕を基盤としない社会が、世界最古級の土器を創造し、長期にわたる定住生活を可能としました。大規模な集落と広範な交易ネットワークを築き、高度な精神文化を発展させたことは、人類史上稀にみる文明の成功例です。
縄文人の成功は、土器や定住が必ずしも大規模農耕と結びつくという従来の歴史観に一石を投じました。縄文文化は、その持続可能な生活様式と自然との共生を通じて、現代社会に多くの示唆を与えています。