この記事では、大正時代から昭和時代にかけて近代日本を席巻した新宗教、大本教がなぜかくも広範な大衆の「熱狂」を呼び起こし得たのか、そして国家権力がなぜ「徹底的」な「弾圧」に訴えることになったのかという、対立する二つの現象を統合的に分析します。
大本教の根幹を成す終末論的救済思想である「立替え立直し」と、「九鬼文書」が当時の国家イデオロギーである国体論といかに構造的に衝突したのかを、神学、社会動員、および政治弾圧の三つの側面から究明します。
大本教躍進の時代背景:明治維新以降の社会不安と新宗教の勃興
明治維新以降の日本社会は、急速な近代化と産業構造の変革の渦中にありました。資本主義の導入、都市への人口集中、そして日清・日露戦争を経た後の精神的な疲弊は、既存の伝統的価値観や社会秩序に深い動揺をもたらし、多くの民衆は生活の不安定さや未来への不安を抱え、「世の立直し」を求める精神的な要求を高めていました。
大本教をはじめとする新宗教は、この社会の「病」に対し、明確な神学的診断と、現世の苦難からの即時的な「救済」の約束を提供しました。その教義が提示する世界観の刷新と変革の切迫感が、既存社会に不満を持つ民衆や知識層に強力に訴求したと思われます。
神学的核心の分析:丑寅の金神と「立替え立直し」の教義

艮の金神(丑寅の金神)の位置づけ
大本教の教義の根幹をなす神格の一つに「艮の金神」(うしとらのこんじん)があります。この神は、元来、古来の民間信仰において、鬼門(北東、丑寅の方角)に位置する極めて強い祟り神、または悪神として恐れられ、その方角の行動を制限させる禁忌の対象でした。
大本教の創始期、出口なお開祖は金光教の影響を受けつつ この祟り神を「立替え」を司る根源的な神としました。大本教においては、艮の金神は「天地金乃神」と呼ばれ、単なる恐ろしい存在ではなく、現世の腐敗した秩序を壊し、新しい地上天国を建設する絶対的な意志を持つ主宰神として崇められています。
この神格の転換が当時の大衆心理に解放的な影響を与えたと考えられます。従来の金神信仰は、人々に行動を制限させる恐怖の源でしたが、大本教がこの神を「立替え」の主宰神とすることで、民衆が抱える社会への不安や既存秩序に対する不満が、そのまま神の正義の意志として正当化されました。すなわち「祟り神」が「変革の神」となることで、信者は現状維持を求める国家権力や既成秩序に対して、神の名の下で挑戦する、あるいはそれを変革する心理的な自由を獲得できたのです。
終末論の切迫感の醸成
さらに、艮の金神が持つ本来の属性—予測不能で即時的な災厄をもたらす神—を「立替え」に転用したことは、教義に極めて高い切迫感をもたらしました。大本教の「立替え立直し」は遠い未来の出来事ではなく、艮の金神の荒々しい意志によって、目前に迫った避けられない出来事であると信者に認識させ、信者を熱狂的な行動へと駆り立て、教団が驚異的な動員力を発揮する重要な原動力となりました。
二大教祖の役割分担と教典の成立~出口なおの「筆先」
大本教は、出口なお開祖と出口王仁三郎聖師の二人を教祖とする体制をとりました。
開祖である出口なおは、本人の意思とは異なる「別な力」がこみ上げ、神のお告げを受けて自動書記的に「筆先」を書き始めました。彼女が昇天するまでに書き遺した半紙は約20万枚に達するといわれています。
知的体系化とカリスマ性の出口王仁三郎
一方、出口王仁三郎は、開祖である出口なおの「ひらがな」で記された膨大な筆先に漢字を当て、これを根本教典である『大本神諭』として体系化しました。この教典には、大本出現の由来、神と人との関係、そして当時の現実社会に対する痛烈な批判、さらに日本民族の使命や人類の将来に対する予言・警告が盛り込まれています。
この二重構造は、教団が幅広い社会階層に浸透する上で決定的な役割を果たしました。出口なおの筆先は、素朴で民衆的な霊的根源性を象徴し、社会の底辺にいる人々や、伝統的な信仰を持つ人々に強く訴えかけ、王仁三郎はそれを知的かつ体系的な教義へと昇華させ、社会への批判や未来への啓示という形で展開しました。この霊的根源性と出口なおの素朴な信仰、そして王仁三郎の知的・芸術的カリスマ性の組み合わせが、教団の基盤を強固にしました。
大本教の中心思想:「三千世界の立替え立直し」

教義の絶対性と国家原理との潜在的衝突
大本教の最も中心的な教義は、「三千世界の立替え立直し」を断行し、永遠に変わらない地上天国「みろくの世」の到来を目指すというものです。この目標を実現するために、信者が日常生活で従うべき原理として「四大綱領」(祭、教、慣、造)が定められています。
四大綱領のうち、「教」(おしえ)は「天授の真理」と規定されており、これは天地を創造した神から授けられた絶対的な真理です。大本教の教えは、人間的な考えや私的な都合を一切含まない絶対的なものであり、「時、所、人を問わず、時代を問わず、また現界、霊界を問わず、どこでも、だれに対してでも、絶対的な真理」であると定義されました。
この教義の絶対性の主張は、当時絶対化されつつあった国家神道や国体論の原理を、自動的に相対化する効果を生みました。もし国家が定める法や政治体制が、この「天授の真理」と矛盾する場合、信者は神の真理が優先されるべきであるという潜在的な政治思想を抱くとの疑念が生じたのです。
権威の転倒と弾圧の法的根拠
四大綱領の「祭」の項には、「政(せい)万世一系」という表現が含まれており、形式上、皇室に対する尊重の姿勢が示されています。しかし、教団の神学的中心が「艮の金神」による既存社会の根本的「立替え」にあり、出口王仁三郎がその立替えを主導する神の代理人として振る舞ったため、これは現世の権威への挑戦であると映ってしまったのです。
すなわち、大本教は「天皇制」という形式を否定しない一方で、「現行の天皇を補佐する政治体制(国体)の腐敗」を厳しく批判し、その霊的権威を教団(出口王仁三郎)に帰属させようとしました。このような構造は、国家にとって「国体の根本原理を否定し、王仁三郎が天皇に代わってその地位を占めようとしている」と解釈されるに至り、後の第二次大本事件における不敬罪および治安維持法違反による弾圧の根拠となりました。。
大衆の熱狂と九鬼文書が示す「真実」の構造
大本教の熱狂は、単に終末論的な預言の切迫感だけでなく、出口王仁三郎の特異なカリスマ性と芸術活動によっても支えられていました。王仁三郎は、芸術と宗教の一体を説き、自らの芸術活動を「天地創造の原動力、これ大芸術の萌芽である」と位置づけています。
王仁三郎は、文筆、書画、詩歌、陶芸など多方面にわたり膨大な作品を残し、その中でも特に晩年に全精力を注いだ手造りの楽茶わん3000個は、フランス油絵のような鮮やかな色彩美を持つ「耀盌」(ようわん)と名づけられ、人々を魅了しました。これらの作品は、後に欧米6カ国13都市で海外芸術展として展示され、国際的な反響を呼んでいます。
王仁三郎が提示したこの美的経験としての救済は、教義の論理的な理解を超えて、信者に神性の直接的な体験を提供しました。王仁三郎の洗練されたカリスマ性は、伝統的な農村の神事や素朴な信仰とは異なり、高学歴者、知識層、さらには軍人を含む幅広い社会階層に大本教が浸透する決定的な要因となりました。
九鬼文書が示す「真実」の役割と政府の危機意識
明治から昭和初期にかけて、国家が記紀神話に基づく皇室の起源(公定史観)を絶対化する中で、公の歴史書には記されていない「真の神代史」を伝える古史古伝は、既存の秩序に疑念を持つ知識人や民衆の間で強い関心を集めました。九鬼文書は、熊野地方の九鬼家が代々伝えたとされる文献であり、特定の神々の系譜や古代の神祇祭祀に関する独自の解釈を含みます。そして、九鬼文書が教団内部で示唆した「真実」とは、公定史観によって意図的に封印された、古代の神代の真の秩序のことでした。
政府による激しい弾圧は、九鬼文書などが提示する「真実」の神代史観を通じて、皇室の霊的権威の根源そのものを奪い、国家イデオロギーの土台を崩壊させようとする大本教の意図に対する、国家側の深刻な危機意識の現れがあったと判断されます。
近代日本の国家イデオロギー「国体論」の絶対化と九鬼文書の真実
明治維新以降、日本では「国体」思想、すなわち日本は万世一系の天皇によって統治された神国であるという思想が確立・定着し、祭政一致の原理が国家の根本原理とされました。この国体論は、明治天皇が「我皇国、天神天祖、極ヲ立、基ヲ開キ給ヒシヨリ、列聖相承、天工ニ代リ、天職ヲ治メ、祭政維一」と述べたように、国家の統治機構全体を支える絶対的な神権的権威と見なされました。
特に昭和初期に入ると、軍部皇道派による皇道論の宣揚とともに「昭和維新」というスローガンが盛んに唱道され、国家イデオロギーは一層先鋭化。1935年(昭和10年)の美濃部達吉の天皇機関説に端を発した国体明徴運動は、この皇道宣揚運動を日本社会に深く浸透させ、国体論は一切の異論を許さない絶対的な防御システムと化しました。このような状況下で、神道家や学者も積極的に国体論の絶対化に加担し、国家の安定のためには、いかなる異端的な霊的権威や社会変革思想も許容しないという非寛容性が社会全体に浸透していきます。
大本教徹底弾圧事件(第一次・第二次)の構造分析

弾圧の法的複合性
大本教は1921年(大正10年)の第一次事件、そして1935年(昭和10年)の第二次事件という二度にわたる大規模な弾圧を受けました。第一次事件は主に不敬罪が適用され、言論統制の色合いが濃かったのですが、第二次事件の弾圧は、国家の危機感の深さを示しています。
第二次事件において、政府は公式に、大本の教義は国の根本原理(国体)を否定し、出口王仁三郎が天皇に代わってその地位を占めようとしているとして、不敬罪に加え、「国体の変革を目的としている」とする治安維持法違反を適用しました。治安維持法は本来、共産主義者や無政府主義者など、国家の構造を暴力的に変革しようとする政治結社を対象とする法律でしたが、国家が大本教に対して国家の構造を根底から覆す政治的意図を持つ反体制勢力とみなしたことになります。
徹底弾圧の背景としての信者の社会的位置
大本教が持つ「立替え立直し」という急進的な変革思想と、その強い民衆動員力、さらには一部軍人や知識層を含む幅広い信者の存在は、国体明徴運動が進行する昭和初期の日本にとって脅威でした。
治安維持法を適用し、教団施設をダイナマイトで破壊し、教祖を長期にわたり拘束した徹底的な弾圧は、単なる指導者の排除に留まらず、大本教を通じて社会に浸透した民衆の「立替え」思想を完全に社会から根絶するための、見せしめ的なイデオロギー浄化措置でした。この措置を通じて、国家は神学的、政治的な異端を許容しないという、国体の絶対性を内外に誇示したのです。
九鬼文書と皇道論の「衝突」
九鬼文書などの古史古伝が大本教にもたらした影響は、弾圧の深層理由を理解する鍵となります。国家が絶対視した国体論とは、記紀神話に基づく皇室の権威です。しかし、大本教が九鬼文書などの「秘された歴史」を提示し、独自の神代史観を説くことは、この公定の土台を崩す行為となったのです。
九鬼文書が、もし出口王仁三郎を正統な神代の血統(あるいはその霊的後継者)と結びつける内容を持っていたならば、それは王仁三郎の「神の代理人」としての地位を、既存の皇統と対抗できる水準にまで高める神学的・歴史的な「裏付け」となります。政府が徹底的な弾圧を選んだのは、大本教が「立替え」という形で現状の政治体制(国体)の変革を企図したからです。また、九鬼文書のような古史古伝の使用は、その変革の目的が単なる政治運動ではなく、神権の源泉をめぐる闘争と判断し、国家イデオロギーの存立に関わる最深部の脅威として扱わざるを得なかったと考えられます。
大本教の教義と国家イデオロギー(国体論)の対立点
対立項目 | 大本教の主張 (立替え思想) | 国家イデオロギー (国体論) | 衝突の性質 |
神権/権威の源泉 | 艮の金神による立替えと預言(筆先) | 天神天祖より続く万世一系の天皇による統治 (皇道) | 霊的・統治的権威の競合 |
現状社会の評価 | 悪の支配する「三千世界」であり、根本的な変革が必要 | 祭政一致の「神国」であり、維持すべき絶対的秩序 | 現実肯定か変革か |
指導者の地位 | 出口王仁三郎は神の代理人、地上天国の指導者 | 天皇は現人神であり、国家統治の唯一絶対の権威者 | 権威の転覆を狙う挑戦 |
歴史的基盤 | 古史古伝(九鬼文書など)に基づく独自神代史観 | 記紀神話に基づく公定史観(皇室の起源) | 歴史的正統性の争奪 |
比較すると、大本教の教義が、神権の源泉、現状認識、権威の正統性、歴史的土台の全てにおいて、国体論という国家の絶対的イデオロギーと対立軸に在ったことを示しています。
【まとめ】大本教事件の遺産と現代的意義
大本教事件は、信教の自由と国家権力の絶対性が激しく衝突した近代日本史における最も劇的な事例の一つである。大本教の熱狂的な支持は、急速な近代化の中で生じた民衆の精神的な飢餓と社会の不公平に対する怒りに根差していました。彼らは、艮の金神が象徴する「立替え」の思想に、現状を打破し、新しい世界を築く神の確約を見たのです。
一方、政府による徹底弾圧は、国体という絶対的なイデオロギーが、いかに人権や言論の自由、そして信仰の多様性を抑制したかを示す歴史的な教訓です。治安維持法の適用は、大本教の活動が宗教的な範疇を超え、国家の存立基盤を脅かす政治的陰謀として解釈された結果でした。
しかし、出口王仁三郎の卓越した芸術的・霊的カリスマ性と、出口なおの純粋な霊的権威の組み合わせによって生み出された大本教の力は、物理的な弾圧によって根絶されることはありません。艮の金神が象徴する「立替え立直し」思想は、弾圧後も形を変えて日本の精神史に残り続け、戦後の新宗教運動に大きな影響を与え続けています。
そして、コロナ禍以降、アイデンティティを失いつつある日本人の再びの拠り所となりつつあります。
参考文献・サイト
九鬼周造[ 田中久文 ]
地球誕生神話 謎の九鬼文書「天地言文」より / 佐治 芳彦 / 日本文芸社
偽書が揺るがせた日本史 [ 原田 実 ]